社長 佐藤益夫 の人生

団塊の世代に生まれる。

(S22、23、24の3年間で約700万人が生まれる)
戦争が終わって3年経った1948年に岩手の県北、野球の盛んな片田舎に生まれる。
親は疎開により、東京から地元岩手に戻って来たと聞いている。
上に兄姉、下に弟妹の5人兄弟のど真ん中で、典型的な貧乏人の子沢山の家に育つ。
とは言っても、周囲の家も程度の差はあれ、大なり小なり皆貧しい家庭が多かった。

小5からアルバイトに明け暮れる。

小5になって母から体を鍛える意味で新聞配達(読売)を勧められ、
6年生までの2年間配達することに。
中学に進む時、新聞配達は弟に譲り自分は発売に
なったばかりのヤクルト配達にバイト転職。
ヤクルトのバイトは、自分でヤクルトを仕入れ
愛飲者を探して販売するという新しい形のバイトだった。

毎朝仕入れに行って配達し、月末に一軒ごと請求書を作って自分で集金。
1ヶ月の仕入額を元締めに支払うという商売の形になっていた。
もちろんバイト料は全額母親に上納!
(一部高校に通う姉の月謝に廻っていた)

中学を終わる頃
父から「中学で義務教育は終わる。
上の学校に行きたかったら自分で働いて行け」
と言われ・・・

子供ながらに上に姉がいて下に弟妹がいるから
薄々親に期待するには無理があるなと判かって
いても厳しくも悲しい言葉に聞こえた。
その後、父とは相談することも話を聞くことも無くなった。
(こんな父親が嫌で年の離れた兄は、私が小5の時には家を出ていた。)

野球・夢・借金・恩情

私は新聞配達で長嶋の事を知り、野球好きになり
中学・高校と部活に励む。
(もちろんバイトをやりながら)
中・高とも野球の強豪校で、特に高校は
甲子園8回出場と県下で知られた名門
でもあった。

高2の秋、県で優勝して東北大会も決勝まで進み
勝ったら春の選抜は固いとまで言われたが
残念ながら私の運もここまでだった。
翌年3年の夏は優勝候補と言われ臨んだが
番狂わせの初戦敗退。
(プロのスカウトまで来ていたのに)
甲子園に出て、あわよくば推薦で大学へ入れたら
と言う淡い淡い期待と夢は、シャボン玉と消えて今がある。

夢破れて3年の卒業式の時、私は授業料の月謝を
払いきれず全額返済まで卒業証書預かり処置となる。
更に町のスポーツ店に野球道具代も”ツケ”払いが
溜まっていたが「出世払い」の約束という寛大な
お取り計らいを頂いてめでたく卒業!

就職先の会社から「入社手続きをするので
卒業証書を持参して来てください」と言われた時
は、マジ困った。
高校の事務局に事情を説明し、証書を借りに
行った時の事を今でも鮮明に覚えている。
(私以外にもバカはいたみたい)

「質実剛健」がうたい文句だった母校を私は今も誇りに思う。
高1から担任だった恩師とは、毎年クラス会を開き
バカな時代を思い出し、楽しく語り合っている。
”ツケ”の支払いは1年間給料から8割の天引きで完済。
卒業証書を晴れてゲット!
でもここで一言。

S42(1967年)、実はヤクルトのバイト料が
24,000円/月で、初任給は18,000円/月。
バイト料の方が多かった。しかもバイトは
実務2時間×30日、会社は8時間×25日。
この違いは何だと思った。

小5からのアルバイトの経験で得たものは
家計を支えた影響は大きなものがあったと
母は口には出さなかったが、のちのちの語りに
感謝の気持ちを感じる事ができた。
私的にはあえて試練の8年間であり
現在の精神的土台の生成期間でもあったと
感謝している。

努力しても報われない事もある。

耐える事で道が拓ける事もある。

何事も自分は周囲に生かされ
周囲を活かす立場にある事を学んだ8年間では
なかったかといま振り返ってみて感じる。

「無知の知」を知って転職

建設資材販売会社に入社して2年後、営業へ配属。
頭で考えていたほど簡単でなく
売れない営業マンの見本みたいなもので
そのくせ負けん気と正義感が強いから
理屈の通らない事にすぐ噛みつき
上司からは格好の叩かれ役になり
よくいびられた。

会社は青森が本社で東北6県に支店があり
皆、南の支店に行きたがらずその分私に
ご指名がかかるという制裁の一つだった
と思うが福島に転勤。
私にとっては営業マンとして願ってもない
修業の場となった。
13年経って売れない営業の見本から300人いる
営業のトップ10の常連とまで言われるようになり
その気になっていたころ転勤命令。
岩手の旗艦店の立て直し目的で15年ぶりに
地元盛岡に戻る(S59年・1984年)

そこで取った販売戦略が第1次、第2次オイル
ショックでエネルギー戦略の見直しを迫られ
ていた

日本の国内事情と既に温暖化を要因と
する異常気象の発生を背景にこれからは
省エネルギー住宅の必要性が絶対来ると判断して
高性能住宅(当時は寒冷地住宅と称していた)の
研究に着手。

寒冷地 札幌の住宅展示場を視察して
「1台のストーブで”全館暖房”」のキャッチ
フレーズに衝撃を受け、これは大変だ、これを
持って北海道の工務店が東北に上陸したら
東北の工務店が全滅する・・・と思い
早急に工務店を集め研究会を作り
普及、促進に着手。
(S62 (1987年) 岩手住環境研究会を6社で設立)
本格的に活動を始める。

テレビ等でニュースに取り上げられる様になり
メンバー全員まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで活動していた。
ある日メンバーの一人から、手ごわい施主がいる
からと営業の応援要請があり意気揚々と参上。
そこで質問されたたった一言がいかに自分の知識
が浅くいい加減なものかに気づかされる結果に。

「グラスウール10㎏品の100ミリとスタイロ
フォーム50ミリではどっちの断熱性能が上ですか?」
と言う質問に
「スタイロフォーム50ミリ」と答えた自分。

「本当ですか?」と聞かれマズイ・・・違うと
気づいても説明できずその場を引上げだ。
会社に帰ってメーカーに正解を求めたが誰一人
答えられず図書館へ。

熱伝導率と熱貫流率
調べたがたった1~2行の説明では使い物にならず
途方に暮れていた所に、のちのち高性能住宅の
私の師匠と言える人物に出会い答えを教えて頂く事に。
3日後、工務店さんとお施主さんを再訪問し説明。
その時に言われた言葉が「あなただけです。
答えを持って来たのは。」でした。

そのお宅の受注は成功し年が明けて引き渡しに
なり大変感謝されましたが、

私はこの事件を機に
自分の知識の足らなさに反省し、もっと断熱の事
省エネの事を学び頼られる人を目指そうと思い
22年間お世話になった会社を辞める事にした。

(社内の昇格試験も受かり支店長の座が約束
されていたのに…と言われたが、なぜかその時
の私は個人の事より私を信じてついてきた人を
裏切りたくないと言う気持ちが強かった)

パネル化工法で全国展開

平成元年6月(1989年)前職時代に
取り扱っていたパネル化工法の企業で
札幌に本社を置く住宅会社に転職。
その会社に決めた理由は
どんなにいい断熱材でも施工が
悪ければ性能は出ないと言う事。
パネル化する事で、早くて、簡単、
確実な施工ができ、性能を担保できるであろうと
自分自身そう思っていたところに
この会社のオーナーに

「なぜパネル化したのですか?」と尋ねたら
「誰が施工してもほぼ同じ性能が出せる」
しかも「パネル化する事で工期も読めるから」
という事が開発の理由だと言う。
正にその通り、私が資材販売会社で断熱材の
指導で抱えていた問題点そのものだった。

この会社に出会っていなければ自分で
開発しようと思っていたので、既に現物が
あるのであれば…この商品を全国に普及
させてあげた方が早いと考え入社を決断
した訳です。

ただし、この会社は自社物件用のパネルを
開発していたため他人に売る発想がなく
またノウハウもなかったので私が全面的に
担当して取引契約書、各種伝票、工場の
人事、生産管理、そして営業まで何から
何まで準備にかかりスタート。
手始めに東北6県から取り扱い工務店の
開拓に着手。

幸い前の会社と円満退職の関係があり
代理店として起用し一気に東北6県を
組織化する事が出来た。
次に北陸甲信越、関東と開拓を進め
入社から5年でほぼ本州の半分の
ネットワーク化に成功。
(担当エリアで350社、1,500棟達成)

その後の5年間は東海、近畿、中国、
四国の開拓を手伝い最終的に会社全体で
H8年(1996年)ピーク時には認定工務店720社
出荷棟数3,080棟/年を記録。
累計35,000棟をカウントするまでに急成長。

(私が入社する前は120棟/年の中堅住宅会社の位置づけ)
いつの時代も会社の急成長は
企業としては脇の甘さを時として見せるもので
ご多聞に洩れず「地場工務店の鑑」
「地場工務店の救世主」とまで言われていた
トップが足元が見えなくなって私の理想とする
方向からズレていき、意見の衝突が多くなって
きた時、私の母が倒れ介護が必要となって岩手
に戻る事に。

丁度お手伝いの約束期限の10年目でもあったので
形式上で円満退社としたが。
(上場会社の役員になっていた関係)
<実はこの時、私には3人の子供が現役の大学生活をしていた>
<失業保険の30万/月額ではアッと言う間に家計は火の車に>

捨てる神あれば拾う神あり

辞めて何をやるのかとあちらこちらから
問い合わせが・・・。
一緒に働いていた同僚や前職時代の工務店さんや
岩手の工務店の仲間から、是非もっといいパネル
を作って今度こそ理想の工務店グループを
展開してみようと声を掛けられたが
パネル製造工場の設備だけで2億円かかる資金を
どうやって工面するのか。誰もそんな心配せず
無責任な声を掛けてくるのが正直腹立だしかった。

 

しかし世の中は「奇なるもの」。
何を勘違いしたか
「私がその資金を用意するからやれ!」
と言う方が目の前に。
まさに”天の声”「救世主」現るで
H12年7月に遂に我らが工場・・・
パネル工場が福島に完成。
そこから社員全員が休む間もなくひたすら
働いた。
一生のうちでこれほど真面目に働いた
ことはないだろう位に働いた。

期待をかけてくれる人、出資してくれた人、
ジョイ・コスのメンバーになってくれた
工務店さん、家族、友人・・・
すべてジョイ・コスを心配してくる人を
裏切る訳にはいかなかった。
「佐藤さん、出世払いでいいから」と茶封筒に
300万円入れて12月31日夕方暗くなってから
工務店のご夫婦が手渡してくれた時は泣けた。

心の中で、ただありがとうを繰り返していた。
そのほか中学時代の友人が200万円、
私の師匠と言うべき人から200万円等々と
皆出世払いを条件に提供してくれ
感謝でいっぱいでした。
一生の恩でありどんなに返しても
返しきれない恩と思っています。
だからジョイ・コスは命に代えても
ダメにできないのです。

社員も家族を説得し、借金して資本金を
拠出しています。
ジョイ・コス認定工務店200社、
既にジョイ・コス住宅システムで建てられた
2,500軒のオーナーの方々の期待を裏切る訳に
いかないのです。
私の命が尽きてもジョイ・コスは永遠で
あることを祈って、日々精進しなければならないのです。

私のエネルギーの源

私が高校を卒業し社会に出る時、母が一言
「世話になったな」とポツンと言った後で
「社会人として世のため人のためになる事を、
いつも頭に置いてやれ!」

それから「女、子供を泣かせる男になるな!」と。
これが私の思考、行動の原点。
これが私のエネルギーの源で
母から頂いた尊い財産です。

ジョイ・コス住宅システムは、市販されている
省エネルギー躯体システムとして
非常にバランスのとれた完成度の高い
住宅システムになっていると自負しています。
取り扱い工務店さんも特別な道具や工具を
必要とせず、日本伝統の在来軸組構法の
良さをそのままに自由設計で地場工務店さん
の今ある技術で誰もが建てられるシステムです。
(2020年の義務化はもちろん、2030年の
推定基準すら標準仕様でクリア出来ている)

一生懸命建て主さんのために努力して
説明し施工した者が評価される
認定工務店制度のルール。

ムダな権利金やロイヤリティー、会費などなく
ノルマやギャランティーもない。
まさに地場工務店さん向けに提供を
約束した超高性能住宅システムです。

一生懸命働いていたら自分の人生が見えてくる。
私の人生は周囲に生かされ、周囲を活かすことを
目的に生まれてきているかもしれないと近頃思う。

 

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